お久しぶりです。(内容重ためです)
また期間が空いてしまいました。笑
前回更新したのがいつかもわからず…
思いついたときにしか書いてないです。はい。笑
私が出現しない間に皆さんはどのように過ごされていましたか?
心優しい方はぜひ、コメント下さい。笑
コメントがこなそうなので
つい最近の出来事について、記録として書きます。内容は重ため。
自分の気持ちを忘れないためにも書かせてください。
7月4日に同居していた祖母が亡くなった。
祖母とは生まれたときからずっと一緒に住んでおり
小さいときからたくさん面倒を見てもらっていました。
お腹が空いたといえばちゃちゃっと作ってくれたり
親には内緒でお小遣いくれたり
やんちゃしたときは親と同じくらい心配してくれたり…
そんな祖母が今年入ってすぐに散歩中、転倒。
その出来事がトラウマ、恐怖となり家から出なくなっていました。
次第に体調を崩し、病院通いが始まり
動かなくなったことにより、会話も減り認知が進み。
腎臓を悪くし、透析をしないと半年もたない。と余命宣告を受けました。
余命宣告されたとき祖母は治療をしたくないと言った。
痛いことはしたくない。と。
みんなで話をし、透析をすることに納得はしてくれた。
そこからは腎臓の数値を調べながら、手術の選択
通うところ、日数、時間などたくさん考え祖母の体調を様子見した。
余命宣告されてから数値が思ったより悪くならず
一定の数値でとどまり祖母の腎臓がとても頑張っていました。
少し下がっては維持。下がっては維持。
ですが1ヶ月ほど前に数値が急激に下がり、急遽透析の手術をし
翌日には透析ができるようになりました。
術後一週間、二週間と様子を見て数値は維持。たまに回復。笑
祖母の腎臓が頑張り、ギリギリのところでしばらく耐えていました。
ですがこの期間、祖母は虚ろになったり全身のかゆみ、食欲低下
昼夜逆転、排泄問題に苦しんでいました。
いっそのこと透析を始めたほうが楽になる。と感じていたが
透析を始めることもまた、体力や免疫力などの問題があった。
なので先生との話し合いでギリギリまで透析は始めないことになっていた。
次の通院予定の数日前に意識低下と呼吸低下。
様態が急変し、救急搬送。
そのまま入院。検査の結果、数値がガクンと下がっており透析開始。
予約していた日に来ていたら間に合わなかったと…
入院したその日に透析をし次の日には、意識が戻り会話もできた。
本人は意識混濁の中入院したため
ここがどこなのか。なぜ一人なのか。何をされているのかわからず
あった瞬間に涙した。
その光景が今も残っている。
入院した日から2,3日は透析の効果もあり元気になってきていた。
しかし肺炎を発症し、意識が混濁。
反応があったり、まったくなかったり。数時間で様態が変化していた。
自分の意志関係なく、体が動いてしまうため拘束も数日された。
酸素が低く、酸素マスクをし。酸素もマックスまで。
先生からもっても数日と。
毎日通い7月3日。今夜がやま。と言われ覚悟を決めた。
だが祖母はその日を乗り越えた。
しかし翌日の7月4日、お昼前。
意識がほぼなく、会話も反応もなし。目も閉じたまま。
酸素をつけ、自力呼吸を懸命にしていた。
夕方には親戚一同集まり、みんなで必死に声をかけた。
手を握り、体を擦り、声をかけ。
その後、みんなに見守られながら、息を引き取った。
入院してから1週間と1日。
透析は4回。
やっと苦しみから開放されたね。
たくさん頑張った。お疲れ様。ゆっくり休んでね。
体につけられたもの。何もかも外し。痛かったね。
たかが4回だが透析をしたのでアザもでき、血管も痛々しかった。
家族全員。みんなが見守れて良かった。
ばーちゃん。今まで本当にありがとう。大好き。
これからは空から見守っててね。
初めて身内が亡くなり、言葉では言い表せられない感情。
だが悔やんだり後悔はない。
ただただ、お疲れ様。たくさん頑張ったよ。ありがとう。
そこからはあっという間。
通夜をし、火葬。
火葬前に号泣。
姿があるうちはまだ良かった。
棺に入れ運ぶときに、嫌だ。と強く思った。
姿形がなくなった。
でもばーちゃんは私の中にずっといる。
声も顔も体温も。
なくなって2ヶ月経とうとしている。
未だに呼んでしまう。話をする。
きっとこれから先も変わらずに。
タブーなんて思わない。何度も思う。話す。
考える。そして懐かしむ。
私の大切で、大事で、大好きな「ばーちゃん」